TODAY’S WORLD JAPAN 2009.11


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文字通り不眠不休の狂気じみた努力の連続が、
文鮮明師の90 年の生涯であったことをこの自伝はよく伝えている
京都大学名誉教授 渡辺久義

 

 文鮮明師のようなケタ外れの人物がこの世に存在するということ自体が驚異というべきで、単にそれを知っておくためにも、宗教や信仰は抜きにしても、この本は読まれるべきである。文師のような並はずれた知力、体力、意志の強さと行動力をもち、しかも迫害と誹謗とあらゆる苦難に耐えてきた怪物のような人物の自伝であれば、さぞかしそれを反映した暗く屈折した文章で書かれているのだろうと人は予想するかもしれない。

 

 しかしその予想とは全く逆の、明るく澄んだ文章でこの本は書かれている。語られる体験の、常識をはるかに超える内容にもかかわらず、あたかも並はずれて聡明で繊細な、純心な少年が語っているかのようである。文体は人柄を偽ることはできない。「昼12時のように影のない人生を生きなさい」と文師は教える(340頁)。その通りの真昼のような自伝である。

 

 心に残る文章のいくつかを抜書きしてみたい――「この世のすべての生命は、自分たちを最も愛してくれるところに帰属しようとします。ですから、真に愛さないのに所有し支配することは偽りなので、いつかは吐き出すようになっているのです(50)」

 

 「ところで、神はなぜ私を呼ばれたのでしょうか。90歳になった今も、毎日、神がなぜ私を呼ばれたのかを考えます。…私は頑固一徹で、愚直で、つまらない少年にすぎませんでした。私に取り柄があったとすれば、神を切に求める心、神に向かう切ない愛がそれだったと言えます。いつ、いかなる場所でも最も大切なものは愛です。神は、愛の心を持って生き、苦難にぶつかっても愛の刀で苦悩を断ち切れる人を求めて、私を呼ばれたのです(66‐ 67)」

 

 「人格者は、一度上がって急降下する人生にも慣れていなければなりません。大抵の人は一度上がると、下がるのを恐れて、その地位を守ろうと汲々としますが、淀んだ水は腐るようになっています(85- 86)」「神のみ言よりも神通力に惹かれて教会に来る人もいました。彼らは霊的な能力に最高の価値があると思ってすがりつきます。しかし、一般に奇跡といわれるものは世の人々を惑わすのです。奇跡にすがりつくのは正しい信仰とはいえません(150)」「歳月が過ぎて、私たちにも立派な造りの教会が数多く建つようになりましたが、私はそうした所よりも、青坡洞(チョンパドン)の丘の上の狭くて古い家を訪ねて行ってお祈りするほうが、ずっと心が休まります(151- 152)」

 

 「本流の川は、流れ込んでくる支流を追い出さず、すべて受け入れます。そのたくさんの支流をすべて抱きかかえ、同じ流れとなって海に向かいます。世の中の人たちは、この簡単な原理を知りません。本流の川を求めて流れ込む支流が、この世の中の数多くある宗教と宗派です(250)」「幸福は、人のために生きる人生の中にあります。自分のために歌を歌ってみても全然幸福ではないように、自分のためのことには喜びがありません。いくら小さくて、取るに足らないことでも、相手のために、人のためにするとき、幸福を感じるのです(343)」

 

 また文師の豪胆な行動の一つに、反共の闘士である彼が北朝鮮へ乗り込んで、堂々と北の国定思想である「主体思想」の間違いを演説し、側近の誰もが生きては帰れぬと覚悟したとき、金日成主席は彼を逆に尊敬し歓待し、互いに談論風発したことがある。そのときの会話の模様がかなり詳しく描かれているが、これはこの自伝の圧巻であろう。

 

 文師は自分の苦しみにはいくらでも耐えるが、人の苦しみには耐えられない人である。危険を覚悟でひそかに共産国へ送り込んだ宣教師が捕まって獄死したことがあった。このときばかりは文師もしばらく立ち直れなかったという。文師の教える神は、自らの創造した人間のありさまを見てそのように悲嘆の底から立ち上がれない神である。彼は「神によって救われよ」でなく、「神を救え」と教える。あらゆる誹謗と困難に打ち勝ってそれを実現しようとする、文字通り不眠不休の狂気じみた努力の連続が、文鮮明師の90年の生涯であったことをこの自伝はよく伝えている。