大学生・社会人の部 聖賞(3)


⇒入賞者一覧

自叙伝感想文

大学生・社会人の部:聖賞

 北千葉教区 松戸教会 栗原 まゆみ

 

「焦げた木の枝にも新芽は生える」のなかで、西大門刑務所に収監された文先生は、「ここで死ぬことはできない。これは解放の世界に向けて跳躍するための踏み台にすぎない」と考えて越えていかれました。

 

 日本が東日本大震災の被害を受け、多くの犠牲者を思えば、痛ましいという思いですが、流されて何も残らない瓦礫の中から、新しい芽が萌え出してくるのに違いないと思うのです。

 

 この文先生の生き様のなかに、それは確かであると証明されていて、ただ言葉だけの慰めではなく、ただ聞いて気持ちのいいだけの美辞麗句ではなくて、本当にそうなのだ、という真実に基づいていることが、とても貴重で希望なのです。

 立派なことを言う人はたくさんいます。しかし、私もこのようにしてみようと心を奮い立たせてくれるのは、文先生が、誰よりも困難なところを決してあきらめることなく、自ら越えてこられたからです。

 

 私たちは多くを持ちすぎたのかもしれない、と思います。

 私たちは、きっと傲慢すぎたのかもしれない、と思います。

 私たちは、自分の価値を発揮し切れていないのではないか、と思います。

 私たちは苦労を知らな過ぎる、と思います。

 いろんなことを気づかせてくれました。

 

 文先生の生涯を、この自叙伝を通して見たときに、デマや中傷、迫害、死を越えるような茨の峠の連続でした。 何も非がないのに打たれてきたのだなぁ、とその苦労はこの一冊ではもちろん語り尽くせないと感じるのです。 新しくこの本を通して、文先生の生涯を知る人もいます。

 

 年配の苦労して来た人は、「私以上に苦労した人がいた」と涙を流し、それだけで有り難い思いになって、この人はすごいと言われます。

 私は息子と訓読していて、何よりも教育になると思いました。親の後ろ姿から、多くのことを学ばせてあげなければなりませんが、必ずしもよい姿ばかりは見せられなく、立派な親ではないと反省するなかで、文先生の生き方に触れさせてあげることは、子供にとって大きな刺激となり、お手本となるものと信じています。

 

 親がお説教をしても、子供の心に入らなかったりするのですが、文先生の真実の生き様から出たお言葉は、すんなり子供に響くようです。

 訓読を続けていた頃、引っ込み思案で、授業でも手を挙げられなかった長男は、どこか背筋がシャンとするようになり、人前で発表したり、生徒会役員として、学校行事の司会までするようになりました。

 

 未来の希望を持つ子供たちや、若者たちにも、そして、苦労の多い人生を生きてきた年配の方々にも、すべての人々に力を与えてくれるものだと確信します。

 

 文先生の生き方のなかに、真実があるので、私たちが幸福になるには、このように生きなければならないと、教えてくれます。

 お説教はいらない、と若い頃私は思っていました。「こうすべき」という言葉は分かりきっていると。ただ、その方法を知らなかったのです。私は正しく生きたいと思っているけど、そうなり切れないし、幸せになりたい、と思っているのに、うまくいきませんでした。私自身の弱さ、が一番身に沁みていましたが、簡単に直るものではないし、幸せになりたくても運命そのものを変えることはできなかったのです。

 ほしい、ほしいと思うだけでは幸せは得られないようです。

 

 この本と、文先生の生き方のなかにすべて答えがありました。

 「神様、私たちの教会を建ててください」とは祈らなかったという文先生。多くの人の話を10時間でも20時間でも聞き続けられるといいます。そして、真摯に祈り続けられるといいます。

 

 私は文先生に師事し、気がついたら、神様からささやかな幸せを頂いていました。

 「幸福の源は『ために生きる』人生」であると、この自叙伝のなかでも言われています。「欲しい、欲しい」と思っているだけでは得られないけれど、無心で人のために尽くし、自分のことは祈らず人のことを涙を流して祈られる文先生のような生き方が、最も幸福の道なんだろうと思います。

 

 文先生は、世の中で一番中傷を受けた人であると自ら言われるのですが、だからこそ、本当の幸福を知っておられるに違いないと思うのです。