高校生の部 最優秀賞


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平和とは、どういうことだろう。

(高校生の部:最優秀賞)

 桑原 希実

 

 平和とは、どういうことだろう。

 

 学校やニュースからまだ小さくはあるけれども世界を知っていく中で、私が疑問に思う事だ。ニュースでは最近起こった事件や現在も起こっている紛争、戦争の傷跡を報道している。学校では、戦争がいかに悲惨なものかを教えられる。歴史の授業では、その戦争が起こった理由を教えられる。その理由には、権力争いからや親子喧嘩、兄弟喧嘩。人と人との争いが発展して戦争になっている事が多い。要は、戦争というのは喧嘩が発展したものなのだろうと思う。多くの、全く関係のない人たちを巻き込んでの大喧嘩。しかし、喧嘩であるには間違いないのだろうけれど、戦争を止める事はできない。始まってしまえば、どちらかが負けるまで続いてしまう。なぜだろうか。それはおそらく、「親」がいないからだろう。私が兄や姉と喧嘩すれば、両親が止めに入ってくれる。私たちにはそんな親がいるけれど、世界にはいない。いるにはいる。けれど、それを「親」であると大多数の人間が認めていない。認められないのだろう。なぜならそれは、目には見ることのできない「神」という存在だから。今の多くの人は目に見えないものは信じようとはしないし、もちろん認めもしない。

 

 しかし、私は神様はいるのだろうとおもう。誰かに教えられたからではない。そう感じるのだ。山に行けば、人間では成す事のできない大きな力がそこにはある。海に行けば、そこにも人間が抗うことのできない力がある。それはあまりに強く怖くも感じるが、それが心地よいのも確かだ。そこにある絶対的な「何」か。きっとその「何」かは、神様だろうとおもう。

 

 自然は神様の分身だ。本来は人が神様の分身になるべきだったのだろうけれど、人はなれなかった。だからきっと神様は、神様を信じない人間たちに「神様はここにいるよ、いつでも来てもいいんだよ」と、私たちに伝えるために自然を分身として置いていったのだ。

 

 神様は、私たちの親だ。世界の親であり、人類の親であり、私たち一人一人の親。だから神様は泣いている。神様の子供である私たちが争い、傷付け合い、出し抜きあっている。それだけで、神様は泣いている。私の母は、私達兄弟が喧嘩をすれば泣きながら止めに入ってくる。私の父は、私達兄弟が喧嘩すれば怒りながら止めに入ってくる。きっと、神様も私の両親のような心境なのだろう。でもただ一つ違うことは、神様はその喧嘩を止めたくても止めに入れないということだ。それならば、子供の私達がしなければいけないことは、神様の傷を理解し、そして、みんなで幸せに、平和に暮らすことではないだろうか。

 

 神様は、常に私達を愛してくれる。私達はよく「愛」という言葉を使うけれど、それとは比べ物にならないぐらいの深い愛で、私達を愛してくれる。きっと、神様の愛を「真の愛」と呼ぶのだろう。不変で、絶対的な愛。だから人はそれに触れればあまりの心地よさに離れられなくなってしまうのだろう。

 

 しかし、それは神様だけが与えられるものでもないだろう。なぜなら私達は神様に似せて創造された。ならば神様だって真の愛を求めているし、私達も真の愛を創造することができるのではないだろうか。とういうことは、神様に真の愛を与えるのは私達、人だ。私達は誰もがその根底に「真の愛」を秘めている。そしてそれは神様に与えるものだけでなく、他者に与える事だってできるはずだ。メシヤであるイエスは、人々にこう教えた。「隣人を愛しなさい」と。仏教を開いた仏陀は、人々にこう説いた。「慈悲を持って生きなさい」と。そして、文鮮明先生は、私達にこう言われる。「人を愛しなさい」と。

 

 私は、人を愛することが争いを無くすための唯一の方法だと思う。それもただ愛するだけでなく、心から、真の愛で愛すること。全ての、世界の人を。民族、文化、言葉を超え、同じ神の子であるという意識の下、人を愛する。人は愛する人を傷つけようとは思わないし、むしろ護りたいと思う。そんな中なら争いも起こらず、許し、愛し、護っていくのではないだろうか。

 

 しかし、もっと簡単な方法がある。世界の全ての人が、自分と出会った人を愛し、その人の幸せを願えばいい。一人ひとりの世界で見ればその輪はとても小さいけれど、地球全体で見ればその輪は重なりあって、大きな輪となる。とぎれることなく全ての人がその輪の中に組み込まれ、出会った人を愛し、幸せを願い、またその人も誰かを愛し、幸せを願う。そして、愛と幸せの輪は広がり、いつしかそれは世界中の人を愛し、幸せな世界をつくれるのではないだろうか。

 

 神様は、そんな世界を願っているのではないだろうか。