韓国サイト「Book Daily」

話題を巻き起こした、統一教の文鮮明氏エッセイ
「私だけ…、私の家庭だけ…」という言葉は、私の辞書にはない

 統一教の宗教指導者として広く知られている文鮮明総裁がエッセイを出版した。オンラインやオフラインで同氏に対する各種の噂が飛び交うが、図書の内容としては、「世界平和」という大きな話題で自身の人生を回顧した。90になる年齢で「平和を愛する世界人として」(金英社、2009)の出版を通し、同氏が所属する「世界平和統一家庭連合」の特性と自身の考えを表明した。

 「西洋の人たちは、本当に孤独に生きていきます。子供たちは十八歳になれば家を離れ、クリスマスの時などにちょっと顔を見せればそれで終わりです。両親を訪ねていって安否を気遣うこともあまりありません。結婚すれば完全に独立して暮らし、一人で生活できないくらい年を取ると療養所に行きます。そんな状況なので、西洋の老人は東洋の文化を羨(うらや)ましく思っています。『東洋の人たちは、お祖父(じい)さんお祖母(ばあ)さんを一家の長として敬い、一緒に暮らすので、本当に見ていていいですね。子供たちが年老いた両親を養い…。それでこそ人として生き甲斐(がい)があるというものです。療養所で横になって、子供の顔も見ることができずに、歳月が過ぎていくのも分からないまま生き長らえて、何をするというのですか』と嘆く老人が一人や二人でありません。」(韓国語版「平和を愛する世界人として」)p242

 同氏は2000年度に、1997年に3千6百万組を合同結婚させた功労で、「イグノーベル賞」(Ig Nobel Prize)経済学部門で賞を受けた経歴がある。これと関連して、韓国の家庭文化を西洋と比較して優れた点を指摘している。図書全般を通じて「修身斉家治国平天下」の教えである、家庭を治めさらには世界を治めるという教訓と類似する面を見せている。

 「世界平和とは、その言葉どおりに雄大なものではありません。家庭が平和であってこそ社会が平和になり、国家間の葛藤(かっとう)が消え、それがあってこそ世界平和への道が開かれます。ですから、完全な家庭こそが重要であり、家庭の責任はそのくらい大きいのです。『私さえ幸せに暮らせばよい、私の家庭さえ守ればよい』という言葉は、私の辞書にありません。」(同)p251

 図書では直接的に言及されていないが、国際的に進出している統一教の規模はとてつもなく大きいという。同氏のグローバルな活動は、国際社会で活躍しなければならない若者たちに真心に充ちた忠告も伝える。

 「今は『地球村』という言葉さえ昔の言葉になりました。地球はすでに一つの生活圏です。人生の目標が、大学を出て月給をたくさんくれる会社に就職し、安定して生きていくことだとすれば、小犬くらいの成功を収めるようになります。しかし、アフリカの難民救護に命をかけて取り組めば、虎(とら)のような成功を収めるでしょう。 どちらを選択するかは各自の心にかかっています。」(同)p368〜369

 最後の章で扱う同氏の人生哲学は、下記のように整理することができるが、年輪を感じられる生き方が、これから多くの人生を残している者達に教訓を与えると思われる。一人の宗教指導者のエッセイを通じて、同氏の考えと宗教に対する方向を考えてみることができる。

  1. 正午12時のように、影のない生活を送れ。−良心に呵責のない人生。
  2. 汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために生きよ。−真実なる血と汗と涙は人のために流せ。
  3. One Family Under God! 神は一人であり、人類は一兄弟である。

※韓国国内の本を紹介するニュースサイトである「Book Daily/ブックデイリー」(本社は韓国ソウルのヨイド)に紹介されました。下記からアクセスすることができます。
http://www.bookdaily.co.kr/news/articleView.html?idxno=9001&tbar=1


「思想新聞」2009年11月15日号

「父を背負う平和」の原点

 日本占領下の朝鮮半島に生まれてから今日までの、波乱万丈の90年の半生を描く中で、神と人間さらに自然、そのすべてを包み込む壮大なスケールで「生きる」とは何かが語られている。自叙伝でありながら、宗教書、哲学書、人生論としての意義を十分すぎるほど持ち、平易ではあっても選び抜かれた言葉の力を強く感じる書である。それは、そのすべてが体験に裏付けられているからに他ならない。

 「平和な世界をつくることが幼いころからの夢」であったという。普通、人生の夢といえば政治家、学者、医者などになることがあげられる。それが「幼いころの夢」が平和世界の実現であるということに驚きを禁じえないが、すぐに解消される。とにかく自然とのふれあい体験に関する記述が多い。山や海、鳥や動植物、野菜や米、その料理の仕方から生態にいたるまで、あらゆる年代においての経験がエピソードとして登場するのである。ここに「幼いころの夢」の秘密がある。「私が森を愛したのも、その中に世界のすべての平和に通じるものが宿っていたから」だという。さらに、幼い時に山で飛び回りながら寝てしまい、心配して探しきた父に背負われて帰るとき、「何の心配もなく心がすっと安心できる気分、これこそがまさしく平和」であったと述べている。平和を愛し追求する文鮮明師の原点である。

 やがて悲惨な現実に思いが注がれ苦悩する。牧師であった大叔父の影響でキリスト教に入信して神に祈り求めていくのである。15歳のときにイエス様と出会い「苦しんでいる人類を救い、神様を喜ばせて上げなさい」と語りかけられたときの混乱(感動や恐れ、使命から逃れたい思いなど)が生き生きと記されている。さらに9年後、「父の真の愛に目覚め」、「神様と私たちは父と子の関係である」ことを悟る。「目から熱い涙が止めども無く流れ落ち」「子どものころ、父に背負われて家に帰った日のように、神様の膝に顔を伏せて涙を流した」という。文鮮明師の平和思想と平和運動の原点は「父の背中」と神との出会いにあったのだ。

 すべての人間が神と「父子の関係」を回復することなくして平和と幸福はありえない。共産主義と戦い、ゴルバチョフと会って宗教を受け入れることを訴え、金日成主席と会見して朝鮮半島の平和について語り、さらに全世界に宣教師をおくり、それを支える経済基盤を作ってきた理由はそこにある。

 「私が何を語るのか、何をする人間なのかを調べようともせずに、ただ反対する」人々が多いのは残念である。一つの事実も、見る視点によって真実が捉えられなくなる。「独裁者」「搾取者」というような批判があるのは残念なことである。記されている事実を追体験しようとする姿勢があれば、真実も見えてくるだろう。

 文鮮明師の提言は親である神の願い、すなわち人類一家族世界実現である。そのためには国家間、宗教間、人種間にあるすべての分裂と対立の要因は取り除かれなければならない。まず神と人間が父子の心情関係を回復し、神を中心とする家庭が拡大することであり、さらに世界を一つに結ぶ国際平和高速道路網の建設による一つの世界実現を提唱している。

 この自叙伝は、「父に背負われる平和」から出発し「父を背負う平和」、すなわち平和を愛し、作り出す人になることをわれわれに促している。


「平和大使」2009年11月1日(第94号)

 本書は、文総裁の長い現実の体験に基づいた人生の知恵に満ちており、「人生いかに生きるべきか」という重要なテーマについて、貴重な教訓を与えている。

 幼少の頃からの身の回りの昆虫、動物、植物、樹木などに関する深い関心はファーブルの『昆虫記』やシートンの『動物記』を髣髴させる生命への関心と愛情であり、さらには地球全体の環境問題や宇宙や海洋への関心は、その幅広さを再確認させてくれた。また、政治的にはジンギスカーンに比較できるし、あらゆる分野での天才についてはアリストテレス、レオナルド・ダヴィンチに似ていると、本書を読んで、その点を再確認できた。

 最近、韓流の時代劇を多数見ているが、朝鮮民族の特徴が文総裁の人生に凝縮されている。まさに頑固なくらいに困難を克服して大業を達成する。また、リトルエンジェルス(韓国少女民族舞踊団)の公演を見て感じたことは、朝鮮民族の洗練された芸術性の高さと感性の豊かさであるが、はからずも本書で明確に述べている。日本人が失ってしまった大業という人生の目的、人間の尊厳性や気品、人情の豊かさ、礼節等を朝鮮人が現代においても、さらには時代劇においては見事に体現しているが、本書では朝鮮の伝統的文化として明確に主張している。

 ちょっと困難に遭遇すると1年もたたずに政権を放棄する日本の首相の軟弱さと比較して文先生は地獄のような迫害や艱難に遭いながらも、何と強靭にそれらを克服して生き延びることか。何度かに及ぶ監獄の生活も含め、あらゆる迫害に耐えた強さは信仰に支えられているとはいえ、まさに驚嘆に値する。

 文総裁は平和を愛するとはいえ、単なる念仏平和主義者でない。本書では、この点が明確にされている。環境問題、食糧問題、平和問題、南北朝鮮の統一問題など、あらゆる人生の側面について透徹した現実主義に基づいた処方箋を打ち出し、かつ着実に実践している。

 また、日本におけるあらゆる偏見と誹謗と中傷にもかかわらず、冷静に客観的に評価するならば、まさにメサイア、少なくともアジアの輩出した、稀に見る英傑であるのは間違いない。旧日本軍や警察によりあれほどの拷問にあったにもかかわらず、怨讐をこえて日本の将来も役割もしっかりと考えて日本再生のための処方箋を打ち出しておられるのも感謝するしかない。(大学教授)


TODAY'S WORLD JAPAN 2009.11

文字通り不眠不休の狂気じみた努力の連続が、
文鮮明師の90 年の生涯であったことを
この自伝はよく伝えている
京都大学名誉教授 渡辺久義

 文鮮明師のようなケタ外れの人物がこの世に存在するということ自体が驚異というべきで、単にそれを知っておくためにも、宗教や信仰は抜きにしても、この本は読まれるべきである。文師のような並はずれた知力、体力、意志の強さと行動力をもち、しかも迫害と誹謗とあらゆる苦難に耐えてきた怪物のような人物の自伝であれば、さぞかしそれを反映した暗く屈折した文章で書かれているのだろうと人は予想するかもしれない。

 しかしその予想とは全く逆の、明るく澄んだ文章でこの本は書かれている。語られる体験の、常識をはるかに超える内容にもかかわらず、あたかも並はずれて聡明で繊細な、純心な少年が語っているかのようである。文体は人柄を偽ることはできない。「昼12時のように影のない人生を生きなさい」と文師は教える(340頁)。その通りの真昼のような自伝である。

 心に残る文章のいくつかを抜書きしてみたい――「この世のすべての生命は、自分たちを最も愛してくれるところに帰属しようとします。ですから、真に愛さないのに所有し支配することは偽りなので、いつかは吐き出すようになっているのです(50)」

 「ところで、神はなぜ私を呼ばれたのでしょうか。90歳になった今も、毎日、神がなぜ私を呼ばれたのかを考えます。…私は頑固一徹で、愚直で、つまらない少年にすぎませんでした。私に取り柄があったとすれば、神を切に求める心、神に向かう切ない愛がそれだったと言えます。いつ、いかなる場所でも最も大切なものは愛です。神は、愛の心を持って生き、苦難にぶつかっても愛の刀で苦悩を断ち切れる人を求めて、私を呼ばれたのです(66‐ 67)」

 「人格者は、一度上がって急降下する人生にも慣れていなければなりません。大抵の人は一度上がると、下がるのを恐れて、その地位を守ろうと汲々としますが、淀んだ水は腐るようになっています(85- 86)」「神のみ言よりも神通力に惹かれて教会に来る人もいました。彼らは霊的な能力に最高の価値があると思ってすがりつきます。しかし、一般に奇跡といわれるものは世の人々を惑わすのです。奇跡にすがりつくのは正しい信仰とはいえません(150)」「歳月が過ぎて、私たちにも立派な造りの教会が数多く建つようになりましたが、私はそうした所よりも、青坡洞(チョンパドン)の丘の上の狭くて古い家を訪ねて行ってお祈りするほうが、ずっと心が休まります(151- 152)」

 「本流の川は、流れ込んでくる支流を追い出さず、すべて受け入れます。そのたくさんの支流をすべて抱きかかえ、同じ流れとなって海に向かいます。世の中の人たちは、この簡単な原理を知りません。本流の川を求めて流れ込む支流が、この世の中の数多くある宗教と宗派です(250)」「幸福は、人のために生きる人生の中にあります。自分のために歌を歌ってみても全然幸福ではないように、自分のためのことには喜びがありません。いくら小さくて、取るに足らないことでも、相手のために、人のためにするとき、幸福を感じるのです(343)」

 また文師の豪胆な行動の一つに、反共の闘士である彼が北朝鮮へ乗り込んで、堂々と北の国定思想である「主体思想」の間違いを演説し、側近の誰もが生きては帰れぬと覚悟したとき、金日成主席は彼を逆に尊敬し歓待し、互いに談論風発したことがある。そのときの会話の模様がかなり詳しく描かれているが、これはこの自伝の圧巻であろう。

 文師は自分の苦しみにはいくらでも耐えるが、人の苦しみには耐えられない人である。危険を覚悟でひそかに共産国へ送り込んだ宣教師が捕まって獄死したことがあった。このときばかりは文師もしばらく立ち直れなかったという。文師の教える神は、自らの創造した人間のありさまを見てそのように悲嘆の底から立ち上がれない神である。彼は「神によって救われよ」でなく、「神を救え」と教える。あらゆる誹謗と困難に打ち勝ってそれを実現しようとする、文字通り不眠不休の狂気じみた努力の連続が、文鮮明師の90年の生涯であったことをこの自伝はよく伝えている。


「世界日報」紙 2009年10月18日付11面

平和の川となった多彩な活動
文化部 増子耕一

 朝鮮半島は、太平洋を挟んで日本とアメリカに対する一方、中国、ロシアと国境を接し、アジアとヨーロッパ大陸とも連なっている。そのため昔から強大国の勢力争いの要地となり、多くの犠牲を払ってきた。日本統治時代には国を奪われ、その後も国土が真っ二つに分断され、愛する家族と別れなければならず、涙の地となっている。

 著者が生まれたのは、そのような背景をもった国である。世界が平和であってこそ朝鮮半島も平和だが、世界に紛争と貧困と飢餓の苦痛はなくなっていない。

 「私は生涯一つのことだけを考えて生きてきました。戦争と争いがなく世界中の人たちが愛を分かち合う世界、一言で言えば、平和な世界をつくることが私の幼い頃からの夢でした」

 第一章の冒頭で語るこの言葉は自叙伝全体を貫く主題だが、すでに幼少時代から貴重な能力が与えられ、その歩みが始まっていた。山野を跳び回っては、自然が神の心情の中で生まれた息遣いを感じ、お腹をすかした人にご飯を食べさせる曽祖父以来の家族の生き方に人生を学び始める。

 15歳の頃になると、13人いた兄弟姉妹のうち5人の弟妹が相次いでこの世を去り、悲惨な民族の立場の中で、生と死や、人生の苦しみと悲しみについて悩む時間が増えてくる。そして祈りに夜を明かす日が増えていって、ついに神がその祈りに答えてくださる日が来る。イエス様が現れて、「地上で天の御旨に対する特別な使命を果たしなさい」と語られたのだ。

 それからの人生は、肉が削られ血が流れる、形容し難い茨道の連続だったが、文師は神を愛することによって、自分や家族の問題よりも、人類の苦痛を先に考える人になったのだ。宗教間の和平問題はじめ、宗教家として世界を舞台に行ってきた多彩な活動の数々は、あらゆる所で平和の川となり、その愛が乾いた地を潤してきた。その波瀾万丈の生涯は、宗教や人種や国境を越えて、人々が融和し得る道を教えている。


「圓一」紙 2009年10月号

「神を救え」と教える文師
京都大学名誉教授 渡辺久義

 文鮮明師のようなケタ外れの人物が我々と同時代に存在するということが、まず驚くべきことである。世の中は小人の論理で動いているから、こういう人を私利私欲や権勢欲といった卑しい観点からしか見たがらない。またそのように見ようとする組織的宣伝があれば、喜んで人はそれを信ずる。それほど楽なことはないからである。現にこの自伝を読んで、文師の生涯を追体験しようとするだけでも相当の覚悟が要求されるであろう。

 文師は、自分の苦しみにはいくらでも耐えるが人の苦しみには耐えられない人である。超人的だから人の情も超越しているかといえば、そうではない。危険を覚悟でひそかに共産国へ送り込んだ宣教師が捕まって獄死したことがあった。このとき文師は何日間も何も手につかず、しばらく立ち直れなかったという。文師の教える神もそのように歎き苦しむ存在で、「神によって救われよ」でなく、「神を救え」と教える。

この本を読むことを勧められない人々がいる。まず神の胸倉をつかんで哭くことも叫ぶこともなかった人、また自分より優れた人物に出会いたいとは一度も考えたことのない人、こうした人々は読んでも無駄、あるいは不愉快になるだけだろう。また宗教や民族の和解・融合などあり得ないと鼻で笑う人、世評が無上の基準であるような人にも勧められない。

 文師ほど誤解され迫害されてきた人はいないが、迫害という理不尽なことがなぜ起こるのか、そのからくりに興味をもつ冷静な人々には一読を勧めたい。何よりも「悪人」文鮮明その人に興味のある方々にとっては必読の書である。


「友情」紙 2009年10月号

世界的な宗教者が波乱に満ちた生い立ち語る

 宗教指導者の自伝といえば、特殊な伝承や奇跡物語など、教祖の神秘性と超能力を描くものが少なくない。偉人の伝記は、そうした弟子たちの師に対する敬意と神格化という装飾によって飾られるのが普通である。

 四大聖人といわれるブッダの生誕における奇跡、七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして言ったという「天上天下唯我独尊」にしても、弟子たちによって後世に作られた伝承だろう。

 そうした神格化が行われるのは、過去の時代だけではない。現代の偉人にしても、その幼少時代は、奇跡などの彩りによって神格化を免れない。

 それに対して、自伝の場合は本人が語ったり書き残したりする性質上、そうした弊害はより少ないと考えられる。しかも、貴重な歴史的な証言となる可能性もある。

 たとえば、世界を動かすキリスト教にしても、イエス本人が語ったものが残されていたとしたら、今のような同じキリスト教での宗派対立は避けられただろうからだ。

 本書の著者の場合、悪評や批判、うわさなど、新聞の三面記事などでスキャンダルな人物として取り上げられることが多い。その意味で、興味本位で読まれる面があるかもしれない。

 しかし、そうした先入観をもって読み進めると、著者の率直に語る内容に思わず引き込まれるようになるに違いない。それほど本書に語られている内容は、ドラマチックであり、驚異的なものがある。

 1920年、著者は現在の北朝鮮領となっている平安北道の定州に生まれ、豊かな自然の中で多感な生活を送っている。性格は強情で、実の母親にたたかれても、絶対に自分の非を認めなかったというほど。

 しかし、その根底には正義を愛する心情がたぎっていた。著者がいかに正義を愛し、不義を憎み、貧しい人への同情と愛が豊かであったかは、数多くの幼少時のエピソードで示されている。

 たとえば、ケチな農夫のおじさんにかけあい許可をもらい、夜にほとんどのマクワウリを子供たちで食べてしまったというエピソードがある。

 文少年だけに許可したと思っていた農夫はかんかんになって怒り、「おまえがやったのか」と詰問したとき、著者は「誰にもわけてやらないのとわけてやるのはどちらががよいか」といって道理を説く。これには、農夫も納得して引き下がったという。

 また、大みそかの日に貧しい村人ために家に内緒で一斗の米を担いで行った話。正月を迎えるのに、餅も食べられない村人の喜ぶ姿が見たかったためだ。

 この背景には、文家が常に貧しい者を放っておかず、乞食が門前にくれば、すぐに御膳をもっていって食べさせたという伝統がある。そのような家の伝統が著者にも受け継がれ、世界の貧しく飢えた人々を食べさせることを志していく原動力になる。

 その多感な文少年が、宗教指導者になる決心をしたのが十五歳でイエスの霊と出会ったことがきっかけだった。そのとき、文少年は、全身がその責任の重さにふるえてしまったことを正直に述べている。

 以来、その使命の重さに日々、快活な性格がまったく変わってしまい、社会の矛盾に目を向けさせ、日本の植民地となって、その重いくびきに苦しんでいる民族をみて、韓民族の解放と独立を願って独立運動に挺身していく。

 歴史の証言として貴重な内容もある。

 たとえば、ソ連共産主義政権のときにゴルバチョフ大統領と会見した時のエピソードや北朝鮮の金日成主席に会ったときの会話など、当事者でなければ語り得ない内容が明らかにされている。

 著者は、何度もその宗教活動ゆえにゆえなく投獄され、拷問された経験を持っている。中でも、その体験がリアルに迫ってくるのは、共産主義下の北朝鮮で当局に捕らえられ、窒素工場の興南工場で強制労働させられた時の体験談。

 多くの者が劣悪な環境の中で倒れる中で、わずかな食料で飢えをしのぎ生き延びていったこと。狭い牢屋で自ら一番汚い臭い場所である便器のそばで寝起きしたことの話などは、体験した者でなければわからないものがある。

 生死の境にいてさえ、その場を神とともに生き、そこに神の悲しみと痛みを感じたことが伝わってくる。ここに究極的な神の心情の神学が展開されていると感じるのは評者だけではあるまい。

 社会的には悪評が多い著者であるが、そうした誤解を解く書であり、先入観を持たずにまず率直に読めば、この著者が何を目的とし、何をしようとしているのかが自ずとわかってくる。

 その意味で、まず手にとって読んで、その精神の神髄にふれてほしい気がする。

(H)


「宗教新聞」紙 2009年10月20日号

自ら語る90年の真実

 世界基督教統一神霊協会(統一教会)の創立者である著者が、数え90歳にして世界の現場で活動していることは驚きだが、その広がりが興味深い。ルネサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロは、その多彩な活躍から「万能人」と呼ばれるが、宗教を基盤に国際高速道路のような公共事業にまで乗り出すのには、空海のようなスケールを感じる。その原点が、16歳で出会ったイエス・キリストにあることから考えると、イエスが生涯を全うしていたら同じような展開をしたかもしれない。

 1920年に著者が生まれたのは、儒教文化に包まれた韓国北部の農家。独立運動をしていた牧師の叔父の影響で、著者が10歳の時、一家はキリスト教に改宗する。また、中学生が自殺した新聞記事を読み、3日間泣き通したという。そうした精神環境が著者を宗教的探求に向かわせ、深い祈りの中でイエスと出会うのである。  1941年に初めて日本に渡り、早稲田高等工学校電気工学科に入学した著者は、聖書を学びながら、それ以上に社会の底辺の人たちから人間のあり様を学ぶ。独立運動にも加わったため警察に逮捕・拷問されながら、生涯の友と出会う。43年に卒業し、韓国に帰った頃、宗教的真理は確信に到達する。そして光復(終戦)直後、ソ連支配下の平壌で布教活動を始めた。

 著者の教えは多くの信徒を得ていくが、やがて既成のキリスト教会と政府から迫害されるようになる。それは、信仰を原点に生活協同組合など幅広い社会事業を展開した賀川豊彦が、神秘体験を率直に語ったためにプロテスタント教会から批判されたのに似ている。新興宗教はそうやって鍛えられるのだろう。

 自叙伝なので割り引いて読む必要はあるが、著者の活動と日本での評価のギャップは大き過ぎる。特に著者が生涯の課題として取り組んでいる韓半島の平和統一は、日本の平和にも深く関わる問題であり、もっと関心を持つ必要があるのではないか。金日成との会談など実にスリリングで、やがて歴史のエピソードとして語られるのだろう。


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